最近、ある友人との会話の中で聞いた言葉。
なるほど的確。
実はとても尊敬している方で、同じ様にファイト!をカヴァーするアーティストさんがいるのだけど、ここ最近色々あって歌えなかったりなんかしているらしい。「同じ様に」なんて言うと烏滸がましいかもしれないけど。
僕も以前歌えなかった、というか僕には歌いたくなかった時期があった。
その原因は、見ず知らずの人から届いたメール。
「働いた事ありますか?代弁者のつもりかもしれませんが、あなたに中島みゆきさんの曲を歌ってほしくありません。」
ご丁寧にHPのお問合せフォームからメールを送ってきて下さったのを今でも鮮明に覚えています。
「はぁ、代弁者・・・ですか。」と正直思いはしたものの、「ポキッ」と何か音がして、
ファイト!どころか活動休止をしたあの日が懐かしい。
今こうして歌えているのも、ある意味この出来事があったからなのかもしれないな、なんて。
それでも感謝の念なんて全然持てないですけど。
なんというか、
ファイト!って、力が宿り過ぎていてカヴァーするにはリスキーな曲だよなといつも思います。
受け手側、聴き手側一人一人に、それぞれの思い入れが曲にはあって、解釈もその数だけある。
それはどの曲でも当たり前の事だし、とても良いことだとも思うのですが、
あの曲に関しては受け手側個々人に、生き死にに関わる程の思い入れを持った人がとても多い様に感じます。
人生で、本当に「死にたい、死のう」と心の底から思った事が正直僕には無いし、
どちらかというと「そう言って弱っている自分に酔っている、死ぬ覚悟なんて本当は持てない小心者」だったなって今になって思う。
だから本当にそれくらいの窮地から這い上がってきた方の中には、僕の様な人間の歌うファイト!は「軽い」と言いたくなるのかもしれない。その気持ちも今は何となく分かる。
でも同時に、「だからと言ってあんたの琴線に触れなきゃ歌えんのか」と思うのです。
Youtubeなんかでもカヴァー動画をアップしている方が沢山いて、よくコメント欄に「中島みゆきのほうが云々」「竹原ピストルと比べて云々」と書き込まれていたりしますが(ファイト!に限った話ではないけど)、
僕からすればそんな事を書き込む現象こそ「闘わない奴等が笑う」現象に見えて仕方がない。
そんな「ファイト!」評論家のみなさんの中には、きっとあの曲で救われたり、あの曲に出会えたお陰で今こうして生きていますって人が多いと思うんですよ。それってきっと、必死に闘っていた時に、それを嘲笑うかの様な仕打ちを受けて、その苦しみや悲しみをヒシヒシと感じて「もう嫌だー!」って時の感情がわかる人でしょう?それでも尚と、冷たい水の中を震えながらのぼってきた結果、今があるんじゃないの?
ミイラ取りがミイラになる様なあの感じ、ホント嫌。
ただでさえカヴァーなんて、オリジナルとの兼ね合いを気にしなきゃいけない難しい事なのに、
「ファイト!」という、現代の流行歌の様に一緒に踊れなけりゃあ歌って盛り上がれもしない、尺は長い、TikTokできない、挙げ句の果てにCMでめっちゃ爽やかに使われて、「いい曲だなぁ」なんて気になって調べてみるとその内容の重さに驚愕してしまう人もいる・・・
そんな曲をわざわざカヴァーでチョイスする時点で、歌ってる側もそれなりに解釈して歌っていると思うんだよね。
僕はあのとき活動休止をして逃げたけれど、先述したその「尊敬するアーティスト」は、今も闘っています。
あの歌を歌う責任は、僕のそれなんかよりも何十倍何百倍と重いのに。
その人だけじゃなく、先日誕生日企画に呼んでくれた御茶ノ水KAKADOの浜田さんも、他のKAKADOスタッフも演者もお客さんも、みんなそれぞれがそれぞれの場所で毎日闘ってる。
もちろん今の僕も。
だからこの間「ファイト!」を歌った。
あぁ、こんな大口叩いてしまった。
Youtubeに載せてる「ファイト!」、あのままじゃあかんな。。。
とりあえず一度ライブに来てほしいな、と思います。
一二三
Comments